镡上云雾

不死不休,不糊不散

木户孝允公传 附松子夫人の事蹟

  松子夫人の父は若狹小濱藩主酒井忠義に仕へし淺沼忠左衞門の次男にすて、同藩生咲氏を繼ぎ、其名を市兵衛と稱す、市兵衞、同藩醫師細川太仲の女末子を娶りて四男三女を生む、其次女は卽ち松子夫人にして天保十四年に生れ、公より若きこと十歲なり、後市兵衛故あり家を擧げて京都に出で、遂に夫人を妓となす、夫人性義俠にして氣慨の士を重んじ、また夙に公の人と為りを知る、甲子の變後、長藩士の京攝に在るもの皆歸國し、公獨り潛居して其事情を偵察したりしが、幕吏の搜索颇る峻嚴にして其身また危殆に逼る、夫人苦楚辛慘を俱にして常に之を庇護し、屢虎口を免れしむ、當時京都に今井太郎右衛門なるものあり、世々毛利氏の爲に金策の用務に服し、また防長米の販賣を大阪の豪商に周旋せる御用商人たりしが、夙に勤王の志あり、公を始め周布政之助、久坂義助等長藩志士の上京して京都に延留する每に多く太郎右衛門を訪ひ、また此の家に寓居せることあり、依りて、夫人もまた屢來りて太郎右衛門及び其妻を知る、傳へて云ふ、甲子の變後、公の窮困羸憊して飢に苦むや、夫人之を深憂し太郎右衛門の妻に謀りて結飯を作り、變裝して夜に紛れ、竊に二條大橋の下に赴き、之を公に與へて僅に其餓を凌がしあたりと、斯くて、公は苦心慘憺京都に潜伏すること數日、禍害の身に及びて宿志の将に水泡に歸せんとするを憂懼し、遂に廣戶甚助に謀りて但馬に遁走せしが、夫人未だ其所在を詳にせず、而して幕吏百方公を搜索して獲ること能はず、夫人の隱慝せるを嫌疑し將に捕縛して訊問せんとす、會甚助公の密命を含み、出石より京都に來りて公の所在を告げ、且つ竊に夫人を伴ひて對馬に赴く、蓋し公は夫人の危難に遭遇せんことを深憂し、甚助をして夫人を誘ひて其踪跡を晦ましあ、姑く京都を遁亡せしあたるなり、對馬には志士多田莊藏、樋口謙之亮等文久壬戌以來公に親交したりしを以て、また夫人を知る、甲子の變後、莊藏等京都を去りて國に在りしかば、夫人の來れるを迎へて頗る之を厚遇す、然るに、夫人は日夜公の身上を憂慮して措く能はず、速に但馬に赴きて其苦を共にせんことを欲す、翌慶應元年夫人甚助と相與に對馬を發し、其途次下關に寄港して長藩の事情を探聞す、時に公の舊友未だ其所在を知るものなかりしが、夫人の下關に到るに及びて大村永敏、野村靖等之に面會し、始あて但馬に潜伏するを審にし、各書を送りて長藩内訌の狀况を報じ、且つ歸國を懇請す、斯くて、夫人は公の窮乏を慮り、衣服及び旅金等を準備して甚助と共に下關を發し、幾多の危險を冒して漸く出石に赴き、詳に長藩の事情を公に告ぐ、是に於て、公は益長藩の形勢危急に切迫せるを知り、大に之を愤慨して須臾も稽留すること能はず、速に歸國して之が匡救の策を講ぜんとし、夫人の齎らしたる衣服を用ゐて直に旅装を調ふ、初あ公の出石に走るや、商估に變じて各所に潜伏したりしが、甚助は其妹壽美子时に年十三を付して竊に之に給仕せしむ、公乃ち壽美子を始あ潜伏中知人となれるものに、其厚意を謝して各别を告げ、四月八日夫人及び甚助其弟直藏の三人を携へて出石を發し、京都を經て大阪に出で、海路に由りて五月二十六日下關に着す、是より公は藩論を一定して幕軍の四境に迫れるを擊退し、王政復古の後は廟堂に在りて維新大政の施設に盡瘁せしが、夫人常に之を内に助けて家政を整理し公をして顧念なからしむ、明冶十年公車駕に供奉して京都に在るや、偶其病篤きの報に接し、夫人東京より之に趨きて日夜看護し、薨去の後は直に薙髮して翠香院と稱し、京都に移住して專ら其冥福を祈りしが、十九年四月病んで殁す、時に年四十四、其遗骸は洛東靈山に在る公の墓侧に葬りたり。


评论
热度(7)

© 镡上云雾 | Powered by LOFTER